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「熊野と文学」第16回中上健次─「隈ノ會」


 中上健次は、ほとんどの作品の舞台を熊野にとるなど郷里に対する思い入れが人一倍強かったが、それが単なる望郷の念と異なるのは、多くの文化会を組織し積極的に郷里に関わろうとしたことである。中でも「部落青年文化会」と「熊野大学」が著名だが、実はその間をつなぐ「隈ノ會」がある。
 隈には山の中の入り組んだすみという意味がある。つまり、隈ノ會は日本のすみっこに位置する熊野で開く文化会なのだが、当時流行の「中心と周縁」理論を援用し、埋もれがちな周縁こそが輝くべき場所であることを訴えた。
 具体的な活動として隈ノ會は大きなイベントを二つ主催した。一九八七年八月一五日の発会イベントと、八九年八月一二・一三日の二日間にわたる、当時引退中の都はるみをメインとしたイベントである。それらは共に「ばちきったろかぁ」と題されていた。「ばちきったろかぁ」とは、熊野の方言で「殴ってやろうか」という意味を持つが、何故「ばちきったろかぁ」なのか。
 隈ノ會のメンバーは中上の同級生を中心とした人達だが、今の熊野を担う世代の彼らにとって、「現状を憂う気持ちはいまや”ばちきったろうかぁー”の憤りに変わっている。この怒りをエネルギーに地域文化の振興を考えていく」、その志を表した言葉だった。
 また、中上は発会イベントで「聖なる地熊野は世界に対してのメッセージを発することのできる唯一の場所。そういう場所に住んでいることに気づかず、お金勘定ばっかりしているんじゃないか」と語った。当時のバブル経済のただ中にあって、それに抗して、本当の熊野の意味を問い直すことから地域の振興を考えようとした。
 隈ノ會は、中上の郷里での活動すべてを支える重要な拠点となり、作家中上健次を紹介するフランスのテレビ局に取材協力するなどした後、熊野大学に発展的に引き継がれていくことになる。熊野大学がすべての人に開かれた門となるために、隈ノ會はその礎(いしずえ)となったと言える。

(クリオネ:中日新聞牟婁版平成13年4月20日掲載)


「熊野と文学」第17回中上健次─「熊野大学」


 昭和六三年一一月、中上健次はひとつの夢を語った。「俺と一緒に長期間にわたって物を考えてくれる仲間が五十人いれば、熊野大学というものができる。/「熊野」は二十世紀最後の思想潮流になると思っている。熊野には世界を救う思想がある。/排除をせず、共に、もっと高い所から見つめようと、そう呼びかけ、導けるセミナーをやったらどうか。」
 熊野は「隈(すみっこ)野」という思考を更に進めて、世界中の「隈」をつなぎ連帯する、そのユニバーサルな出会いの場としてユニバーシティ(大学)を構想した。設立時のプランでは熊野学・沖縄学・アイヌ学が提唱され、「隈」同士を結ぶ船での交易も語られた。
 初のセミナーは翌年一月六日に開講されたが約一年半は準備講座だった。中上は前身「隈ノ會」メンバーを中心に事務局を組織、また資金的なバックアップを目的に学友会を設置し運営体制を固めた。そして平成二年七月新宮市の西村記念館にて熊野大学開講式が催された。
 セミナーは俳句講座と連続講座の二部に分かれ、前者は新宮市ほかを吟行しての句会、後者では俳句講師茨木和生他の講義と中上が山本健吉の『いのちとかたち』を読み解いた。中上が俳句を中心に据えた根拠は明らかでないが、誰でも参加しやすく奥深いことの他に、講師生徒の別無く自由に批評しあう句会の形式が熊野大学の思想に合致したのではないか。
 平成三年夏、熊野大学は本宮大社にて「都はるみ in 熊野神社」を行った。中上はすでに病苦に犯されていたが陣頭で指揮を執り、本宮町史始まって以来の人々を集め大成功させる。続いて翌年二月にお灯まつりセミナーを企画したが、その直前に慶応病院に入院した。しかし残されたスタッフが見事に後を引き継ぎ、中上はビデオにて病床からメッセージを伝えた。そして八月、中上は不帰の客となった。
 死後九年を経た今夏も、中上健次が遺した夢は全国から多くの人々を惹き付けることだろう。(ホームページ「Internet熊野大学」http://www.kumanodaigaku.net/)

(ラストバルーン:中日新聞牟婁版平成13年5月12日掲載)



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